師走の晴れ間に誘われて:2025年冬 大山登山記

 2025年12月28日。年の瀬も押し迫ったこの日、私が神奈川県の大山に向かったのには、明確な目的があった。それは、一年の罪穢れを祓い清める年末の神事「師走大祓」に参列すること。新しい年を清らかな心で迎えるため、古くから霊山として信仰を集めるこの地で、静かに一年を振り返りたい。そんな厳かな期待を胸に、冬の澄んだ空気が心地よい麓の町へと降り立った。この時はまだ、この一日が当初の計画とは全く異なる、忘れられない登山へと姿を変えることになるとは想像もしていなかった。

 麓の俗世から山上の神域へ。その境界線を越えるための道のりは、単なる移動ではなく、心を整え、聖なる空間へと意識を移行させていくための重要な儀式となる。緑色の車体が印象的なケーブルカーに乗り込むと、ガタンという小さな振動と共にゆっくりと斜面を登り始めた。窓の外には、冬枯れの木々の間から麓の町並みがみるみる小さくなっていく。高度が上がるにつれて感じる、日常から切り離されていくような高揚感。それは、これから訪れる神聖な場所への期待を静かに高めてくれる時間だった。

 ケーブルカーの終着駅を降りると、ひんやりと、しかし清浄な空気が肌を撫でた。石段を登った先、目の前に広がる阿夫利神社下社の境内は、師走の静寂に包まれ、訪れる者を厳かに迎え入れる。歴史の重みを感じさせる社殿に手を合わせると、慌ただしかった年末の心がすっと静まっていくのを感じた。参拝を終え、神社の持つ凛とした空気に満たされた後、私は境内に併設された茶屋に足を向ける。12月から始まった新メニューがあるらしい。冷えた身体を温めつつ一息つこうと立ち寄ったその場所が、この日の旅路を大きく変える転換点となる。

 旅における最高の思い出は、時に計画の余白に生まれる。この茶寮での休憩は、まさにその「余白」が生んだ嬉しい誤算であり、当初の目的であった神事への参加という計画を、より衝動的で忘れがたい冒険へと転換させる、決定的なきっかけとなった。

 訪れたのは、絶景を望む「茶寮 石尊」。席に着くと、まず注文したブレンドコーヒーの芳醇な香りが鼻をくすぐる。やがて運ばれてきたのは、名物の「升ティラミス」の新しいバリエーション、「ほうじ茶の升ティラミス」と、「御神水を使った水まんじゅう」。升から漂う清々しい香りと共にスプーンを入れたティラミスは、驚くほど軽やかで、それでいてコクのあるマスカルポーネクリームが舌の上でとろけていく。そして、御神水で仕立てられたという水まんじゅう。ひんやりとしたそれが舌に触れた瞬間、雑味のない清冽な甘さが広がり、熱いコーヒーの苦みと見事な対比を描いた。

 テラス席で甘味を味わっていると、眼の前には信じられないほど青く、澄み渡った空が広がっていた。「雨降山」の異名を持つほど天候が変わりやすい大山で、これほどの快晴は稀有なことだ。その完璧な青空に心を奪われているうちに、私の心の中に新たな欲求が芽生え始めた。「この天気ならば、山頂からの景色はどれほど素晴らしいだろうか」。特に、登山道の途中にある「富士見台」から、きっと雄大な富士の姿を望めるに違いない。ふとスマートフォンの時計に目を落とす。神事の時間は刻一刻と迫っていた。計画を投げ打って、ただの気まぐれで山に登るなど、正気の沙汰ではない。そう頭では理解しつつも、目の前の絶好の機会を逃す手はないという衝動が、理性を上回ってしまった。私は急遽、山頂を目指すことを決意した。

 予期せぬ好天がもたらした、新たな目標。神事への参加という静かな目的は、山頂からの絶景を目指すという動的な挑戦へと変わった。茶寮で得たエネルギーを胸に、私は本格的な登山道へと足を踏み出した。ここからの道のりは、単に標高を稼ぐための身体的な運動ではない。一歩一歩、自分の足で聖なる山を登るという行為は、厳しい自然の美しさを五感で受け止め、己の内面と静かに対話する精神的な旅でもあった。

 息を切らしながら登山道を進むと、やがて視界が開け、「富士見台」に到着した。そして、そこに広がっていたのは、私の期待を遥かに超える光景だった。雲一つない紺碧の空を背景に、真っ白な雪を頂く富士山が、あまりにも雄大に、そして神々しくそびえ立っている。厳しい冬の空気がもたらす透明感の中、その輪郭はどこまでも鮮明で、まるで一枚の絵画のようだった。登りの疲れなど一瞬で吹き飛んでしまうほどの、圧巻の絶景だった。

 富士見台での感動を力に変え、最後の急な階段を登りきると、ついに大山の山頂に到達した。ミニチュアのように広がる関東平野の町並み。そして遠くには相模湾がキラキラと輝いている。冬の澄んだ空気のおかげで、普段は見ることのできない遠方まで見渡すことができた。この景色は、自らの足で登り詰めた者だけが享受できる、何物にも代えがたいご褒美だった。いつまでも眺めていたい絶景を背に、名残惜しさを感じながらも下山を開始する。山頂で得た大きな達成感と感動を胸に刻み、私は来た道とは異なるルートで麓を目指すことにした。


 旅の終わりは、必ずしも計画通りに美しく収束するとは限らない。下山ルートの選択という小さな判断は、この旅の結末に予想外の影を落とすことになった。帰りは変化をつけようと、「見晴らし台」を経由するルートを選んだが、この選択が誤算だった。登りよりも距離が長く、岩場や急な下りが続く道は、想像以上に体力を消耗させた。陽が傾き、美しい夕景が広がる一方で、私の下半身には着実に疲労が蓄積していく。日没が迫る中、焦りと疲労感がじわじわと心を支配し始めた。

 長く険しい下山道を終え、ようやく阿夫利神社下社まで戻ってきた頃には、オレンジ色の日が山を照らしていた。そして、私がこの旅の本来の目的としていた「師走大祓」は、とうに終わってしまっていた。間に合わなかった。その事実に気づいた時、山頂で得た達成感とは裏腹の、深い悔しさと残念な気持ちが胸に広がった。あの絶景は、この神事を諦めたことと引き換えに得たものだったのだ。果たして、この交換は釣り合うものだったのだろうか。古式に則った神事で得られる共同体の中での清めと、独り自然と対峙し、その荘厳さに心を洗われるような個人的な体験。どちらがより深い「祓い」であったのか、その答えはすぐには出なかった。

 疲れ果てた身体を引きずり、参道の店先で一本の「串団子」を買い求めた。温かく、もちもちとした食感と、素朴で優しい甘さが、空腹と疲労で満たされた身体にじんわりと染みわたる。それは神事に参加できなかった心残りを完全に消し去るものではなかったが、確かに私を慰めてくれる、ささやかな救いだった。疲労と、達成感と、少しの心残りをないまぜにした感情を抱えながら、再びケーブルカーに乗り込む。ゆっくりと麓へ下っていく車窓の暗闇を眺めながら、思いがけない展開に満ちた今日一日の出来事を静かに反芻していた。


 この日の大山訪問は、当初の目的であった「師走大祓」への参加を逃すという、計画の失敗に終わった。しかし、その代わりに私は、生涯忘れることのないであろう絶景と、予期せぬ登山を成し遂げたという確かな達成感を手に入れた。

 もしあの日、天気が悪ければ。もし、茶屋に立ち寄らなければ。私は計画通り神事を終え、穏やかな気持ちで帰路についていたことだろう。だが、計画が崩れたからこそ出会えた、雲一つない空に映える富士山の姿。山頂から見渡した広大な関東平野。そして、目的を果たせなかった悔しさと、それを癒してくれた団子の甘さ。喜びと少しの悔しさが混じり合った、完璧ではないからこそ愛おしい一日。計画通りに進まないことこそが旅の本質であり、その偶発性こそが、旅を忘れがたい記憶へと昇華させてくれる。そんな当たり前の真理を、冬の大山が静かに教えてくれたような気がした。

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