「硫黄島からの手紙」をみたよ

 内容について深く触れるつもりはないですが、ネタバレしたくないという方はご注意ください。

 先週みた「父親たちの星条旗」の硫黄島での戦いを、日本側から描いた作品。父親たちの星条旗では、英雄と祭り上げられた兵士たちの本国での巡回演説が描かれ、硫黄島での戦闘における場面は全体の半分もないくらいだったのに対して、硫黄島からの手紙では、ほとんどのシーンが硫黄島でのやり取りとなっていた。1ヶ月以上戦闘状態となった経緯というか、摺鉢山に星条旗を立てられてからなぜ戦闘が長期化したのかがよくわかる。摺鉢山で星条旗が立てられたのは、あくまで硫黄島における一つの拠点を落としたにすぎず、まだ島の半分ほどは侵攻できておらず、日本兵は地下にほった坑道を駆使してゲリラ的に戦闘を行っていたため、アメリカが完全に硫黄島を掌握するまでに時間を要していた。

 この映画を見たあとにスタッフロールで、これをクリント・イーストウッド監督が撮っている、つまりは日本人ではない人が監督をやっているということを改めて認識したとき、邦画のようにみれたことに驚いてた。主演が全て日本人というのもあるだろうが、全体的に違和感のある描写も特になく「海外の考える日本人」というのはそこに一切なかったように思う。ただ、本作品をみたあと他の人の評価などをみてみると、軍事に詳しい人からすると、細かい設定において「ありえないこと」がいくらか散見されたらしい。気づけないことを幸いとみるべきか、不勉強とみるべきかは個人の判断に委ねられるところであるが、自分は特に気にしていない。

 二宮和也演じる一般兵視点と、渡辺謙演じる硫黄島での最高指揮官の視点、それぞれの視点から現状をみているような描かれ方をしていて、それぞれの立場における苦悩や心情といったものが交互に描かれ、たまに同じシーンで2人がやりとりをし、そしてまたそれぞれの視点にもどる。すでにマリアナ沖海戦による大敗と、本国からの戦力補強が望めないことを知っている指揮官は、1日でも長く交戦できるようにと自身の信念を貫き仲間を率いようとするが、勝てないなら勝てないで華々しく散る道を取るべきだと謳う一部の幹部陣からは「腰抜け」と揶揄されてしまう。上層部のねじれた指揮系統は一般兵に混乱をもたらし、摺鉢山が落とされた後、自決しようとする者と他部隊への合流しようとする者が出たりもする。すべての兵に拳銃が持たされているわけでもないので、自決手段が手投げ弾となり綺麗には死ねない。その場を生きたとしても、味方との合流は銃弾飛び交う戦場を走り抜けなければならず、捕虜となっても生かされるかどうかは不明。合流できても食料や水がなく、愛国精神の強い上官からは「摺鉢山で最後まで戦い抜き死ぬべきだ」とまで言われる始末。地獄が描かれているようであった。

 日本側から見る、海に並んだアメリカの軍艦というのは、絶望を想起させるに有り余る光景だったであろう。日本側はいくら飛行場が硫黄島にあるにしても、先の戦闘により本国の戦力は不足し航空兵力もなく、制空権、制海権をほぼ失った状態から戦いが始まる。兵力差は人数だけでみても10倍以上。劇中で「敵兵を10人倒すまでは死ぬことを許さん」と発破をかけているシーンもあったが、本当にそれぐらいしなければどうしようもない状況だったのだ。この作品において最高指揮官の描かれ方が、英雄とまではいかないが、合理的な考えのできる人物として描かれている。勝てないことをほぼ承知で1日でも長く持ちこたえるために策をこうじているが、映画序盤に一般兵が漏らした「アメ公にくれてやればいい」というのがある意味真理のような、本当の合理的な判断だったのかもしれない。もはやたらればの世界になるのだが、勝てない戦と知った上でこのセリフが一般兵から最高指揮官に伝わったらどうなるだろうか、などと考えたりもする。まぁ即刻ぶん殴られるのが一番ありそうではある。

 観終わってからいろいろとこの作品を見た人の評価などを呼んだりすると、軍事に詳しい人からあまり良い評価は受けていない様子。ただ私個人としては、歴史の読み物の1つとして、2作品合わせて見ごたえのある作品だったと思う。これらをみて戦争について特に考えることはないが、1枚の写真が兵士たちの運命を狂わせるとか、10倍以上の戦力差でも1ヶ月持ちこたえる戦い方があるとか、部分的に興味を抱くものはあるのではないかと思う。また、硫黄島自体への興味関心を抱くきっかけになるかもしれない。

 現在硫黄島は観光目的で上陸することはできず、外観をクルーズ船で見ることしかできないらしい。当時の戦車などがモニュメントとして残されていたりするとのことなので、何か機会があれば上陸してみたいと思う。

 

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